中でも「雪国」は最も心を動かされた作品なのだ。
「雪国」は「伊豆の踊子」にも通ずる系統にある恋愛小説(再び批判を恐れる事なく、恋愛小説という言い方をさせてもらう)である。この2作品は同様に恋愛に伴う喜びと、痛みが描かれているが、それが「伊豆の踊子」では淡く、「雪国」では辛く表現されている。そしてその痛みこそが、おそらく人の心に深く響くのだろう。
そして、その設定、小説の長さ、描写等何を採っても、最も良い形にまとめられていると思われる。
例えば、一般の批評等にも真っ先に挙げられる「夕景色の鏡」の部分の描写は素晴しい。夢幻が車窓を通して、現実と交差する。その描写の美しさは、他に類を見ない。島村が列車で雪国へ向かう中で、東京の自宅という現実世界から離れてゆく過程の様にも思われる。それはある種、逃避であるかもしれないが、この島村という男はその現実から逃避した雪国でこそ、生き生きとした人間味を帯びてくる様に見える。
この物語に登場する駒子は、島村にとっては、逃避世界である雪国での、「実体ある女性としての愛情の対象」であり、現実から離れた世界で夢を見続ける為の女だった。しかし、島村は更に夢幻世界の住人であるかの様な葉子にも心魅かれてゆく。それはさらなる逃避なのだろうか。いや、それよりも、島村は、いや川端は駒子と葉子二人にこそ、同時に理想の女性像を見ていたのではないのか。
物語のエンデ?ングは哀しい。火事場の二階から落下した葉子を抱きとった駒子は、葉子の為に島村をあきらめなければならなかった。そしておそらく、葉子の為に自らの夢を失った生活を送り続けるだろうし、島村も、もう二度と再びこの雪国を訪れる事無く、生気を失ったまま現実世界を生きて行くであろう事を予想させる。
この物語の終わりは、昭和12年の初版当初、二人が別れる前、島村が縮の村を訪ねる描写の前の部分だった。
駒子が、島村の「いい女だよ」という言葉を(あえて極簡単に言ってしまえば)「都合の良い女」という意味に受け取って激怒し、そしてその心を静めて来た朝の描写である。駒子のそんな態度と、初雪をまとった杉林の真直ぐな清さに、彼女の深い哀しみを見、虚無感の様なものを感じながらも、行く末いつまでも今迄と同様に時折この雪
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