汲(く)む 茨木のり子
大人になるというのは
すれっからしになることだと 思い込んでた少女の頃
立居振舞(たちいふるまい)の美しい 発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように なにげない話に言いました
初々(ういうい)しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人とも思わなくなったとき 堕落が始まるのね
堕(お)ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
私はどきんとし
そして深く悟(さと)りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな ぎごちない挨拶 醜く赤くなる 失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態(あくたい)についてさえ傷ついてしまう 頼りない生牡蠣(なまがき)のような感受性
それらを鍛(きた)える必要は少しもなかったのだな 年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
震える弱い?ンテナが隠されている きっと???
わたしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲(く)むことがあるのです
①
私の茨木のり子ノート
「おとし物」を求めて....『詩のこころを読む』を読む1
茨木のり子さんの、『詩のこころを読む』を読み返しました。出版されてすぐに求めて読んだ本ですから、18年ぶりくらいになるでしょうか。読み終えてこれほど深く、透明でいて、何かしら温かい思いに満たされる書物というのは、それほどあるものではありません。
改めて思ったのですが、『詩のこころを読む』は単なる詩の入門書ではありませんね。この本の中には、美しくそして明晰な言葉で、彼女の人生と愛に対する考え方、芸術論がちりばめられています。すばらしいと思うのは、その言葉はきわめて明晰なんだけれど、押しつけになっていないということ。 それらはむき出しではなく、鉱脈の中で静かに光を放ちながら潜んでいて、読み手が成長してその宝石にたどり着き、自分で手に取り、自らの輝きとすることを待っているのです。
初めてこの本を読んだときは、紹介されている一つ一つの詩に目を輝かせ、味わい、感動していたのですが、再読してみると全体の構成の見事さに気づかされます。
「生まれて」、「恋唄」、「生きるじたばた」、「峠」、「別れ」という章立ては、「自然に浮かびあがってきたものを、どう並べようかと思ったら、偶然に『誕生から死』までになってしまったもので、最初からのプランではありません」(「はじめに」)ということですが、ふだん、テストのための教材という形でしか詩に触れることのない僕たちが詩の世界に遊ぶには、あらためて「生まれる」ことが必要なんですね。
事実、生まれ変わるというか、ワープするんですよ。「生まれて」の章の冒頭に置かれた、谷川俊太郎さんの「かなしみ」の第一行を読んだとたんに僕たちは。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
ほらね、何か全く違う世界に、大宇宙のような広大な広がりを持った世界に、いきなりポーンと放り出された気がするでしょう?
何かとんでもないおとし物を 僕はしてきてしまったらしい
②
この「おとし物」、この「何か」を求めて、僕たちはこれからどこが出口でどこが入り口かもわからない迷宮を、さまようことになるんです。苦悩に満ちてではなく、あくまでも愉しく、ネ。詩という世界を旅するのはこういうことです。
なんだか訳がわからないって? だいじょうぶ。茨木のり子さんというすばらしいナビゲーターがいますから、僕たちは安心して(?)迷うことができますよ。
「何かとんでもないおとし物をしてしまった」という自覚をどうしても持てない人は、ちょっと困った。
でも、少なくとも青春という時代には、人はみな心のどこかにぽっかりと空いた穴のようなものを抱えているはず。そしてそれを埋めるものが何なのかはわからず、いらいらして歩き回り、探し求めるはず。
僕のような中年になったって、自分を振り返る余裕すら与えられず迷うにしてもろくに選択肢も残されていない年になったって、それでもやっぱり、いや、だからなおさら、そう簡単には満たされないむなしさで、憂鬱に一日を過ごすことがあるんです。
そんな日はあなたもこの本の扉を開き、愉しく迷宮のあちらこちらをさまよってみてください。読み終えたとき、あなたはきっと生まれ変わっていますよ。
?
茨木のり子『詩のこころを読む』、岩波書店
茨木のり子の美意識....『詩のこころを読む』を読む2
地上は今 ひどく形而上学的な季節 花も紅葉もぬぎすてた 風景の枯淡をよしとする思想もありますが
は、むずかしい行ですが、『新古今和歌集』(巻第四、秋歌)の藤原定家の、 み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ
をふまえていて、白黒のモノトーンの世界、枯れ枯れの侘びしさを長くめでてきた日本の美学への批判を示しています。そしてもっと豊穣なもの、たわわな色彩、躍動的なものを準備し用意しているものへの期待をあらわにしています。
と、牟礼慶子さんの「見えない季節」という作品を紹介しながら、茨木のり子さんは書いています。おそらくこれは、茨木さん自身の考え、美意識の一端を吐露したものでもあるでしょう。
③
確かに茨木さんの詩はいつも輪郭がくっきりしていて、曖昧なところがありません。からりとした明るさ、翳りのないくっきりとした言葉の輪郭。 すっきり、くっきり、はっきり??何かの標語のようでちょっと品がありませんが、こんな言葉がぴったりします。硬質でありながらしなやかで、力強くていながら温かくて。伝統的とされてきた美学からはずいぶんと飛翔した、まさに戦後を象徴する地点にいるかのようです。
例をあげましょうか。たとえば、詩集『対話』に収められた「もっと強く」。
もっと強く願っていいのだ わたしたちは明石の鯛がたべたいと もっと強く願っていいのだ わたしたちは幾種類ものジャムが いつも食卓にあるようにと (略)
女がほしければ奪うのもいいのだ 男がほしければ奪うのもいいのだ ああ わたしたちが もっともっと貪婪にならないかぎり なにごとも始まりはしないのだ
強い意志、ストレートなメッセージ。まるでキリキリとよく引き絞られた矢が、重くよどんだ大気を切り裂いてびゅんと彼方に向かって飛び去っていく、そんな感じがします。
ここには、明らかに未来があります。それが希望というか明るさになっているんですね。茨木さんは、決して感傷や悟りには逃げないんです。あるいは詠嘆に流れることがない。
冷笑もなければ、こう笑もありません。あるのは、僕たちみんなの未来に向けた意志なんです。それが言葉として、詩として結晶しているんです。その思想の深さ、そのダ?ナミズムが美しいのです。
もうひとつ、しなやかな例をあげると、詩集『見えない配達夫』に収められたあの有名な作品、「わたしが一番きれいだったとき」。
わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがら崩れていって とんでもないところから 青空なんかが見えたりした
④
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