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ことに好きで、私も池谷信三郎君と二人で直木氏に連れられて行ったことがある。直木氏は法師から湯沢へ三国峠を越えたこともあったようだが、私は歩いたことはない。』、と書いています。ちなみに清水トンネルが完成し上越線が全通したのは昭和6年(1931)9月ですから、開通した数年後に川端康成は越後湯沢を訪ねたことになります。一度は清水トンネルを通ってみたかったようですね。清水トンネルが完成する前に新潟を訪ねるには信越線軽井沢経由(高崎から直江津まで信越線が開通したのは明治26年です)で、長野から直江津周りで行くしか方法がありませんでした。
★左の写真がJR上越線越後湯沢駅です。上越新幹線と同じ駅で冬はスキー客で賑わう駅
になっています。
<高半ホテル(高半旅館長生閣)>
川端康成が「雪国」を書いたのがこの旅館です。越後湯沢駅からは1.6Km(徒歩約20分)位で、がーらゆざわ駅の手前といったほうが分かりやすいかもしれません。高半旅館自体は800年の歴史があり(川端康成が滞在した長生閣は清水トンネル完成時に建設されたようです)、当時は木造三階建てで、正面入口も現在とは違って、湯本共同温泉の方の坂の上にありました(地図を参照して下さい)。川端康成は高半旅館に滞在していた昭和9年12月に菊池寛の秘書と秀子さん宛他三通の手紙を出しています。秀子さん宛には、「四方の山も野も雪で白い。昨夜の寒さは当地でも今冬で珍しいらして汽車を下りると、宿の番頭等火事場の消防みたいな防寒服装で、肝をつぶした。……中央公論の原稿を出しに駅に行って送ったところ。文藝春秋はまだ書くことがきまらぬ。今から考える。空気の厳しきは仕事出来さうでよろし。雪はまだ野が二三尺。この間の一尺ばかりのがそれだけ解けたのだ。盛りは一丈以上の申。目下客は殆ど全くない。この前の部屋。文藝春秋の原稿駅で受け取ったら、なるべく早く稿料貰って、百円ばかり電報で送って下さい。…」、と書いています。「文藝春秋に書くことがきまらぬ」と書いているのが、「雪国」の元原稿の「夕景色の鏡」になります。ただこの時は「文藝春秋」の翌年1月締め切りに「夕景色の鏡」の全ての原稿が間に合わず、「改造」に続きとして「白い朝の鏡」を書きます。ですからこの二つで「雪国」の一番最初の原稿になるわけです。
★右上の写真が冬の高半ホテル正面玄関です。夏の高半ホテルの写真も見て下さい。
★左の写真は現在の高半ホテル前から湯沢町を一望したものです。夏の高半ホテルからの
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