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川端康成略史(17)

来源:用户分享 时间:2021-06-02 本文由最萌罪名 分享 下载这篇文档 手机版
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川端康成の文学における日本をいうことは、よくいわれている割には易しくない。古都や鎌倉が作品の舞台になるからといって、祭や茶の湯、邦楽、日本画についてよく書かれるからといって、それらの作品を観光小説風に扱う冒涜はまことに耐え難い。

「敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。」という一節の有名な「哀愁」は、敗戦を経験した文学者としての、寂しく勁い決意の文章ではあったろう。少なくともそこにあるのは、作者に意識された日本であり、日本人のはずであった。こういう作者の直截の声を求める者には、君と死に別れてのちは、日本の山河を魂として生きてゆこうという「横光利一弔辞」や、ノーベル賞受賞後、スウェーデン??カデミーで行われた記念講演「美しい日本の私――その序説」、さらに又ハワ?大学での、招聘された客員教授としての講演「美の存在と発見」が、当然味読の対象となろう。

しかし、エッセ?ほど直截ではないがエッセ?に劣らず、あるいはそれ以上に雄弁で多面的なのが同じ作者の小説と読む者には、さらに又、川端康成の日本及び日本人に対する意識が、敗戦などで変るはずもないと思う者には、直截な言葉だけをあげて、川端文学における日本がそこに抽出され要約されていると見做すこともまた躊躇われるであろう。

私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダ??ローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べてみると、少なくとも一つのことははっきりするように思う。それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋っているということである。しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにもふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学ではなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである。

いうまでもなく、二十世紀の人である川端康成は、すでに在る自国の文学のほか、異国の文学といえば漢文学しか享受できなかった古代の歌詠みや日記物語の作者とちがって、古今東西の文学の広い享受者でもある。『骨拾い』『雨傘』などをふくむ「掌の小説」の闊達な多様性が、もっとも率直かつ雄弁に語っているのもこのことである。谷崎潤一郎の、自国の文学享受が、王朝と江戸と西欧との混淆というかたちで生かされているのに対し、この作家の場合は、王朝と中世と西欧とが重なっていてこれ又独自であり、その中世では、軍記物語のたぐいよりも歌と歌論、つまり詩と詩論のたぐいに、より積極的な関心の厚さが見えるのも注目されてよいことと思われる。

際限のない、渇望としてのみありつづける存在への恋が、物や事の、虚しい共存容認という歯止めをもつ時、ダ??ローグを不可欠とするドラマよりもモノローグと結ぶのはむしろ自然かとも思われるのであるが、ダ??ローグを排除するところでしか成立しない「眠りの美女」の詩または音楽、一見きわめて西欧的なこの密室の性愛さえ、じつはこの作家における和歌的なるものの一つの極北を示しているとみられることにも、川端康成における日本の複雑さを思わずにはいられないのである。

(昭和四十八年六月、作家)

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